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木谷宜弘資料館

木谷宜弘プロフィール

徳島県社会福祉協議会時代

ボランティア推進活動に力を注ぐ

帰郷後は、専門学校で教鞭を執る傍ら「山彦会」を再開、BBS運動(非行少年の更生を助ける青年たちの活動)にも取り組みました。一年後の昭和32(1957)年、徳島県社会福祉協議会副会長の懇願を受け、同協議会に就職。事務局長は日和佐町(現美波町)町長を勇退した町弥一氏。二人の活動は情熱的で、週一回の職員会議はわいわいがやがやと賑やかに行われ、出された提案は即決敢行する行動力に溢れていました。

当時は、公費補助も僅かで人もいない、予算もない中、多忙を極めましたが、「行政が行う福祉サービスと民間団体である社協が行う福祉活動は、目的が同じでも方法が異なることを明確にしなければいけない。社協が拠り所にするのは住民参加であり、それこそが福祉社会を実現する基盤である」とボランティア普及活動の推進に取り組みました。

その最初の仕事となったのが徳島から始まった「心の里親」です。終戦から10年余が過ぎ、食料的飢餓ではなく身内を失ったことによる心の飢餓に襲われていた児童施設の孤児たちを精神的に支える里親を、地元新聞社の協力のもと50名募集しました。木谷先生自身も虚弱児施設で暮らす小学3年生の里親となり、文通や交流会が催され、心の里親は最盛期には2千人を超えました。

昭和37年善意銀行をスタートさせる

この同じ年には、当時徳島県内すべての小・中学校において行われていた「子供民生委員活動(平岡国市氏が昭和21年に徳島県で創始した子どもたちによるボランティア活動)」の事務局を担当。この業務がのちの「ボランティア協力校」「TIC運動」へとつながることになります。昭和33年には、「老人大学」を開催、この老人大学も全国に広まりました。さらに、「第一回青年ボランティアの集い」(昭和34年)、「子ども会育成みつばちクラブ」(昭和37年)と続き、同年現在のボランティアセンターの前身である「善意銀行」創設へと至ります。

それは、木谷先生が心配ごと相談所業務とボランティア普及活動を担当していた頃のこと、「助けて」というニーズがある一方「役に立ちたい」というニーズもあることに気づいたことが始まりでした。この2つのニーズが結びついたらどんなになるだろうと自分の発見に夢中になり、銀行システムによる窓口構想を提案、町事務局長が「善意銀行」と命名しました。昭和36年8月29日の徳島新聞に「埋もれた愛生かす、善意銀行来春開く」と掲載されたものの、開設予算ゼロの状態から職員全員一致団結して準備を進めました。

そして、翌37年5月18日小松島市社協が「善意銀行小松島支店」の看板を掲げ、5月23日には県社協運営の善意銀行本店が発足しました。善意銀行は、県内各地に広がり、さらに全国へと波及。昭和38年には511カ所、43年には882カ所、ピーク時の49年には1250カ所を超えました。善意銀行の登場が日本におけるボランティア活動の普及を大きく推進したといっても過言ではありません。

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