善意銀行
昭和37年善意銀行徳島に誕生
昭和37(1962)年に徳島県で創設された制度で、社会福祉に参加したい、貢献したいという住民の善意を需給調整し、善意を必要としている人につなぐパイプ役を担った。
この画期的なシステムは大きな反響を呼び、徳島だけでなく、全国に波及し、日本のボランティア活動が活性化する契機となった。
その後、善意銀行はボランティアセンターへと発展し、現在も全国各地で住民のボランティア活動を推進している。
善意銀行の仕組み
善意銀行本店の役割(本店は徳島県社会福祉協議会に設置)
- 県単位の預託、払い出し業務を行うほか、支店間の連絡調整を行う。
- ボランティア活動の組織化。主役は支店、本店はサポート役。
善意銀行支店の役割(支店は各市町村社協社会福祉協議会に設置)
- 受付窓口を設置し、相談と需給調整を行う。
- 口座の設置
技術口座、労力口座、知識口座、金品口座、特別口座(ボランティアグループ)など。 - 預託と払い出し
善意銀行の口座に預託された善意を、必要としている個人、団体、施設などに払い出す。
善意銀行の歴史
- 昭和36(1961)年
- 木谷先生が善意銀行の構想を提案。
- 昭和37(1962)年
- 市町村福祉活動推進研修会で善意銀行を公式発表(5月11日)
第1号店小松島市善意銀行開設(5月18日)
徳島県善意銀行(本店)開設(5月2日)
徳島支店開設(7月5日)
善意銀行拡大の勢いは徳島県内にとどまらず、「徳島県に善意銀行生る」というメディアの報道により、全国に知れ渡る。その結果、昭和38年には全国に511カ所の善意銀行が設置され、43年に882カ所、ピーク時の49年には1250カ所を超えた。
善意銀行の成果
1. 社会福祉事業の社会化
この当時、社会福祉といえば福祉事務所や社会福祉施設、そしてせいぜい民生委員が実施するものであり、住民の多くは関係がないという意識が一般的であった。しかし、誰もがもっている善意を表現した時、それが社会福祉への参加につながるということを身をもって知るようになった。
それは、特定の人たちでなく、菓子職人・寿司店の店主・大工左官・理美容技術者・舞踊や生け花の師匠・俳人などなど、ごく普通の人たちであった。
「住民の知恵は豊かだった。今までにない創造的なサービスや実践が始まった。
また、善意が善意を呼んで、ボランティアの輪が拡大する傾向が見られた。さらに、受け手であった社会福祉施設の入所者が社会奉仕する姿も珍しくなくなっていった。
2. ボランティア活動の組織化
登録されたボランティアの集い、学習会、共同活動などの機会が増えるに従って、活動を継続するためには組織化することが必要という理解が深まった。善意銀行だけでも、心の里親会、地域子ども会みつばちクラブ、点訳奉仕団、阿波人形浄瑠璃振興会、女性ドライバークラブ、花の善意銀行などのボランティアグループやシステムを誕生させることができた。
3. 善意の需給調整
徳島県の善意銀行は善意の預託を受けて待つというものではなく、積極的に活動の場を開発したり、ボランティア団体との共同プロジェクトを組織化したり、また眠る善意預託に刺激を与えるなど、能動的な需給調整を行い、成果を上げた。
善意銀行まつり、海の子山の子招待レセプション、徳島『子どもの日』設定、花の善意銀行、孫の木植樹運動、心の里親バス、施設の子どもや老人に年賀状をおくる運動、人形浄瑠璃の伝承など多彩な活動を提起していった。さらに、提供先は県内とどまらず、施設の子どもたちが大阪や東京の施設のお友だちに『友情ほたる』を贈る運動を展開するなど、常に前向きの姿勢で前進した。
※成果については木谷先生の著書「ボランティアの渦」からの抜粋。
善意銀行の課題・問題点
- 社会福祉の理念を理解してもらうために、ボランティア学習や福祉教育を計画的に実施展開する必要がある。
- 善意の提供という自己満足の段階に押し止めてしまい、取り組むべき問題を総合的にとらえ、問題意識を育てるまでに至らなかった。
- 善意の仕手と受け手の往復活動が主流で、面としての広がりと有機的な組織活動への発展が 少なかった。
- 銀行という名称のため、金品預託中心の傾向になった。
- 専任のコーディネーターがいないため、ニーズ把握が不十分であったり、調整に手間取ったりするなど需給調整がスムーズに機能させられなかった。
※課題・問題点については、木谷先生の著書「ボランティアの渦」からの要約。
善意銀行からボランティアセンターへの転換は必然だった。
ボランティアセンターの体制整備により、関係者の福祉意識開発、コーディネーター職員の確保、活動拠点やボランティア基金の設置などが進み、課題は解決されていった。
善意銀行のエピソード
善意銀行が生まれたのは銭湯
県社協において心配ごと相談とボランティア普及活動を担当していた木谷先生は、「助けて」というニーズがある一方、「役に立ちたい」というニーズがあることに気づく。この2つのニーズを結びつけたらどんなになるだろうと自分の発見に夢中になった。
昭和36(1961)年、「徳島県ボランティアの集い」において「善意を持っている人の相談窓口づくり」という課題が投げかけられた。その課題に対する答えを思案している時、銭湯で銀行員の旧友と再会し、銀行システムを思いついた。
新聞記事になった以上、やるしかない
銀行システムの窓口構想は、職場でも賛同を得た。
「善意銀行」というネーミングは、当時の町事務局長による。徳島新聞社の記者が偶然その話を耳にし、翌日の昭和36年8月29日、徳島新聞に「埋もれた愛生かす、善意銀行来春開く」の見出しで記事が掲載された。
しかし、木谷先生は事の重大さを思い知った。なぜなら開設予算はゼロ、組織としての協議はまだ。とにかくやるしかないと覚悟を決め、職員全員で取り組んだ。
法令違反の嫌疑がかかる
善意銀行の創設間もない頃、四国財務局徳島財務出張所から呼び出しを受け、木谷先生は上司とともに出向いた。銀行法第四条「銀行に非ざるものは、その商号中に銀行たることを示すべき文字を用うることを得ず」に抵触するため、銀行名を外すことを求められた。
木谷先生らは「善意銀行は商行為に非らず、善意の需給調整機関であり、非営利行為であることを主張し、2時間の反論の末、不問となった。
また、昭和38年春にも、社会福祉事業法第72条第3項の「共同募金会以外のものは、共同募金事業を行ってはならない」に抵触するとの指摘を受けた。
木谷先生は上京し、全国の共同募金会や社協の常務理事・事務局長らに対して説明し、善意銀行に集まった金は共同募金会に報告し、募金に類する方法をとらないことで決着した。
さらに、善意銀行は任意設置が可能で個人でも自由に設置できたため、アジアへの救援を標榜して募金額を悪用する事件が起きた。悪用防止のため商標登録を試みたが、商行為でないため登録することができなかった。