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木谷宜弘資料館

主な業績

徳島県社会福祉協議会時代

こころの里親 昭和32(1957)年

木谷先生が徳島県社会福祉協議会に就職して初めて手がけた事業。当時旧厚生省は毎年10月を「里親及び職親を求める運動」を提唱していたが、日本では里親制度は馴染まず、応募者が極めて低いため、強調月間行事としていた。
そこで小説「あしながおじさん」からヒントを得、アメリカで実施されていた「精神里親」のように文通や交流の機会を持つことによって施設の子どもたちと親しんでもらおうと発案。「心の里親」と銘打ち、地方新聞で募集したところ50名の応募があり、孤児と里親を結び合わせ、文通、写真交換、交流行事を行った。

こどもの日に心の里親バスでピクニックする様子

さらに、「心の里親研修会」「一日里親バス運行による里親里子交歓会」「心の里親会の組織化支援」なども実施し、徳島県社協は支援に努めた。
その結果「徳島心の里親会」が結成され、最盛期には徳島で2,000名を超えた。またその頃には孤児だけでなく、一人暮らしの老人も対象になっていた。
この運動は札幌市へ波及し、2,700名の会員を擁する運動となった。昭和40年になると戦争孤児も成長して施設を巣立っていき、心の里親運動は自然消滅する形となった。

老人大学 昭和33(1958)年

若返証の画像

昭和32年に誕生した徳島県老人クラブ連合会では、一日数時間の講座が開かれていたが、参加者の学習意欲の高まりに応えるため、徳島県社協では一日3科目を7日間開催する「老人大学」を企画した。
昭和33年に鳴門市で第一回を開催するや日を追って受講希望者が増え、定員を上回る盛況となった。
講義内容は長生きするための健康法から時局問題や法律まで多岐にわたり、卒業式には学長(地元の首長)から卒業証書ならぬ「若返証」が手渡された。

老人大学の評判は広まり、県内各地で開催されることとなり、5年目には21市町村へと拡大。
やがてこの老人大学は北海道から沖縄まで全国に波及し、校舎のあるところや大学院制度を併設するところもあった。徳島の老人大学の特色は、生涯学習の性格を帯びており、学習が奉仕活動体験と連動していた。
例えば、鳴門市では老人大学修了後、老人ホームへの訪問活動が行われ、入所者との交流が図られた。また、徳島県社協でも老人趣味の作品展や老人大学へ通えない人のために通信教育を行った。その後、昭和42年には老人総合大学が毎年一回開講され、現在では、とくしま“あい”ランド推進協議会が主催するシルバー大学校へ引き継がれている。

よい遊び場をつくる運動 昭和33(1958)年

2,000名が参加した昭和33年5月の徳島県子供民生委員大会において「よい遊び場をつくる運動」の展開を決議。さらに、1万人の会員によって「子どもの遊び場設置協議会」が結成され、遊び場実態調査が行われた。
神社、仏閣の境内や一般の空き地を遊び場に開放する運動が展開され、開放された空き地は子供民生委員や青年ボランティア、婦人会、老人クラブなどが整地作業を行い、県内各地に遊び場が完成した。徳島県社協は、これらの遊び場に「子供の広場」と表示した看板を贈った。
中には「子供の家」を併設した広場もあった。

青年ボランティアの集い 昭和34(1959)年

昭和34年、青年ボランティア養成を目的とした「第1回青年ボランティアの集い」が1、泊2日の研修キャンプとして鳴門市の大麻比古神社社務所で行われた。
その後、「青年ボランティアの集い」は毎年開催され、研修を修了した青年たちは、子ども会の育成、遊び場づくり、小児マヒの子どもたちの臨海キャンプでの介助活動など、各方面でめざましい活動を展開した。また、昭和40年には青少年奉仕隊を結成し、公園の清掃や整備活動に努めた。

子ども会育成みつばち運動 昭和37(1962)年

徳島は、子どもたちが自ら地域の問題と向き合い、課題を解決していく「子供民生委員活動」が戦後早期から実践されてきたが、徳島県社協でも昭和33年から児童健全育成に本格的に取り組み始めた。そのひとつである「青少年の心に灯をともす運動」が契機となり、さまざまな運動が活発に展開された結果、昭和37年度には県内の小・中学生の70%が子ども会に参加した。
この子ども会を継続して育成していくための指導者の組織化を図るためにつくられたのが、昭和37年3月に結成された「子ども会育成みつばちクラブ」である。
みつばちとは、子どもたちのしあわせという花を咲かせるために働くボランティア指導者のことであり、
①永続する子ども会を育てよう。
②子ども会に必要な環境づくりを進めよう。
③子どもの未来像を確立しよう。
という3つの目標が掲げられた。
子ども会の理論と技術を研究した指導書や映画、巡回指導などにより指導者の養成が図られ、県内各地で多くの指導者が子ども会育成に携わった。
こうした努力が報われ、昭和42年に徳島県子ども会指導者連絡協議会が結成され、昭和43年の全国子ども会連合会に遅参することなく加盟できたのも、みつばちクラブの功績といえる。

善意銀行 昭和37(1962)年

木谷先生の発案により徳島県で創設され、その後全国へと広がった善意銀行は、地域住民がボランティア活動に携わる大きな契機となった。地域の中にある「助けて」というニーズと「役に立ちたい」というニーズを結びつける方法の模索からスタートし、約9カ月の準備期間ののち昭和37年5月18日に第一号となる小松島店が看板を掲げ、5月23日は徳島県社協運営による本店が発足。

老人ホームで散髪をおこなう様子

小松島店で最初に行われたボランティア活動は、理髪師と音楽演奏家が老人ホームで散髪と演奏を行うというものであり、誰でも自分の特技や気持ちを生かして役に立てるという明快さが多くの人に受け入れられた要因のひとつといえる。
善意銀行のねらいには①社会福祉事業の社会化②ボランティア活動の組織化③善意の需給調整、の3点があり、徳島県において高い実績を上げることに成功した。
その後、徳島県内だけでなく全国へと波及した結果、その数は昭和38年に511カ所、43年に882カ所、ピーク時の49年には1250カ所を超えた。
木谷先生が全国社会福祉協議会に招聘されたことにより善意銀行はその機能を拡大させるための体制整備が図られ、全国的な組織力を生かしたボランティアセンターへと転換していった。
徳島県においても昭和59年に徳島県ボランティアセンターに改称、平成8年にはとくしまボランティア推進センターへと機構改革され、現在に至る。